魔法王国カストゥール 復讐の継承者(ファーラム) 水野良 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)|単眼の巨人《サ イ ク ロ プ ス》族 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#改ページ] -------------------------------------------------------  MAIN CHARACTERS ファーラムシア [#ここから2字下げ]  幼少よりクユ族の中で育つが、カストゥール王国の貴族が訪れるなど、とかく謎の多い青年。17歳。 [#ここで字下げ終わり] ミルシーヌ [#ここから2字下げ]  クユ族の族長を祖父に持つ17歳の娘。ファーラムの護衛役を務め、狩りの達人でもある。 [#ここで字下げ終わり] 魔法王メルドラムゼー [#ここから2字下げ]  統合魔術の門主、第152代の魔法王国国王。地位を世襲にするため陰謀をめぐらす権力者。 [#ここで字下げ終わり] レイブラシル [#ここから2字下げ]  精神魔術の門主。ファーラムの兄弟を殺したこともある、魔法王の敵対者。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]イラスト 末弥純 [#改ページ]      1  厳しかった冬がようやく終わり、南の空に浮かぶ太陽は暖かな日差しを投げかけている。風はいくぶん強いが、身を切るような寒風ではなく、枯草のあいだから草の芽をゆり起こす柔らかな春風に変わっている。  なだらかな丘の斜面を登りながら、ファーラムは深く息を吸いこんだ。春の息吹《い ぶ き》を胸いっぱいに溜《た》めると、ゆっくり吐いてゆく。そうすると、まるで身体《か ら だ》のなかが洗われたような爽快感《そうかいかん》が後に残るのだった。 「遅いわよ!」  突然、声をかけられ、ファーラムは自分の前を歩く少女の姿をぼんやりと見つめた。 「分かったよ、ミルシーヌ。すぐに追いつく」  ファーラムはにっこりと微笑《ほ ほ え》んで、少しだけ足を早めた。 「いったい何度、同じことを言わせるのよ」  ファーラムが来るのを待って、ミルシーヌはくるりと背中を向けた。  根元と先のところを革紐《かわひも》で結び、棒のように背中に垂らした栗色《くりいろ》の髪が踊り、ファーラムのすぐ目の前を横切った。矢筒と小剣を腰に吊《つ》るし、左手に長弓を握っている姿は、すでに一人前のクユ族の狩人《かりゅうど》だ。  ミルシーヌは十七歳。ファーラムと同い年だが、小柄なのでふたつぐらいは年下に見える。  頭からすっぽりかぶって肩紐と幅広の帯で止めるクユ族特有の衣服に身を包み、袖《そで》と裾《すそ》の先から伸びるしなやかな手足は惜《お》しげもなく春風にさらしている。  年頃《としごろ》の娘なのだから、腰や胸などもう少し豊かでもよさそうなのだが、いつも山野を駆けまわっているためか、ミルシーヌは無駄な肉が少しもない引き締まった身体をしていた。  ファーラムもクユ族の若者にしては|華奢《きゃしゃ》な身体つきだが、ミルシーヌとは違い、野外で|鍛《きた》えたのではなく、食を節しているためだ。ファーラムは集落の外どころか屋敷の外に出ることさえあまりない。今、遠出しているのは、ちょうど二十日ぶりのことである。  そのときも、ミルシーヌに連れ出された。今日とは違い狩りではなく、雪の下から芽を出したばかりの山菜を摘《つ》むためだったが。  小川に流れていた雪解け水の冷たさを思いだし、ファーラムは小さく身震《み ぶる》いをした。  ふと気がつくと、ミルシーヌがファーラムの方を振り返っていた。  またも遅れてしまっていたのだ。ファーラムはさっきと同じ微笑を浮かべながら、幼なじみの少女のところまで急ぎ足で歩く。 「そんなにゆっくり歩いてたら、獲物が逃げてしまうでしょ」  ミルシーヌは眉間《み けん》に皺《しわ》を寄せながら、責めるように言う。 「こんなにいい日和《ひ よ り》なのに。狩りなどやめて、のんびりしてればいいじゃないか」  そう言って、ファーラムはびっしりと枯草で覆われた地面に腰を下ろした。 「そんなことだから、みんなに笑われるのよ。クユの族長のただひとりの男孫だというのに、狩りも漁もしないで、館《やかた》で学問ばかり。いくら貴族の保護を受けているったって、わたしたちはしょせん|蛮族《ばんぞく》。カストゥールの市民には、なれないのよ」  ミルシーヌの言葉を、ファーラムは|曖昧《あいまい》な笑いで受け止めた。  その笑顔に、ミルシーヌは不安そうな表情をかいまみせた。 「それとも、もうひとつの|噂《うわさ》どおりに……」  ミルシーヌは喉《のど》のところまででかかった言葉をあわてて飲みこんだ。もしも、口に出してしまったら、ファーラムがその言葉を肯定《こうてい》しそうな気がしたから……  ファーラムが族長の孫ではなく、古代王国の貴族の隠し子だというのだ。  ただの噂である。が、完全に否定できない理由もある。カストゥールの貴族たちが代わる代わる訪れ、彼に学問を教えていること。ときには、貴族たちの館に連れてゆかれることもある。  いかにクユ族がカストゥール王国に忠誠を誓っており、王国に反抗的な他の蛮族より厚遇されているとはいえ、市民の資格を与えられているわけではない。奴隷《ど れい》よりすこしましという程度なのだ。族長の一族とはいえ、特別待遇を与える必要などないはずだ。  ——カストゥールの貴族たちが行う魔術の実験に供されているのではないか?  そんな噂もある。  集落の人間の多くは、こちらの噂を信じているようだ。貴族たちがクユ族の人間を魔術の実験に使うのは、例のないことではなかったからだ。クユ族を保護している拡大魔術師《エ ン ハ ン サ ー》一門は、人間の精神と肉体に秘められた潜在能力を引き出す魔術を研究している。  王国の貴族や市民たちより強靭《きょうじん》な肉体をもつ蛮族は、格好の実験材料なのだ。  ミルシーヌも最初は、こちらの噂を信じていた。だが、近頃はどうも違うような気がしている。  実験材料にしては、ファーラムは多くの自由を与えられているし、大切に育てられてもいる。なにしろ、ミルシーヌは族長に命じられ、幼い頃はファーラムの遊び相手を務め、最近では彼の身の回りの世話から、護衛役まで任されている。  当然、多くの時間をファーラムと一緒にすごすことになる。だからこそ気づいたのだが、彼はクユ族の人間とは、人種が異なっているような気がする。肌《はだ》は白いし、髪も鮮やかな白金色《プ ラ チ ナ》だ。クユ族の者は、肌の色は浅黒く、髪も栗色か薄い茶色である。ミルシーヌなど、その典型だった。  長年の従属のあいだに、カストゥールの血もかなり混ざっているから、ときどき現れる肌の色であり、髪の色である。しかし、ファーラムほど鮮やかなのは、見たことがない。  いろいろ考えてみると、ファーラムがカストゥール王国の貴族の隠し子だという噂のほうが真実のような気がしてくる。もしそうなら、いつかは彼はクユの集落を出て、カストゥール王国の都市で暮らすことになるだろう。  そのことを思うと、ミルシーヌの心は暗く沈むのだった。 「笑いたい者には、笑わせておけばいい」  ミルシーヌが無言でいるのを誤解したのか、ファーラムは今度は明るく笑いながら言った。  集落の若者たちが、ファーラムを|馬鹿《ばか》にしていることは、彼も知っているのだ。彼らから見れば、やたら背が高いだけで、体力のないファーラムは頼りなく思えるのだろう。  クユの男たちは自分たちが優れた狩人であり、勇敢な戦士であることを誇りに思っている。彼らはたとえ小剣一本でも、猪《いのしし》や熊《くま》、狼《おおかみ》などに立ち向かってゆく勇気を持っている。  そんな部族を治めてゆくのであるから、族長たる者、誰《だれ》よりも勇猛でなければならないと考えられている。実際、ファーラムの父は、集落の馬を狙《ねら》って襲ってきた鷲頭獅子《グ リ フ ォ ン》と差し違えて、命を落としている。その知らせを聞いたファーラムの母は、夫の後を追って自らの命を絶っている。  そんな勇者の子でありながら、弓でもなく剣でもなく、カストゥール王国の学問ばかりをファーラムに押しつける族長ウバルに不満を言う者もいる。  ミルシーヌは、その一番手かもしれない。族長にはファーラムの護衛を命じられているが、本心を言えば、自分が守る必要がないような強い男になってほしいのだ。 「あなたは背だって高いし、村一番の狩人になれると思うわ」  ミルシーヌはファーラムをじっと見つめながら言った。  鍛えれば、ファーラムは立派な狩人になるはずだ。そして、それは彼がクユの男であることの証《あかし》ともなる。 「さあ、どうだろうね」  ファーラムは気のなさそうな返事をして、服についた枯草を払いながら立ち上がった。 「なれるわよ! 狩りに必要なのは、自信と勇気だけ。獲物を仕留めるまで、今日は帰さないからね」  そう言って、ミルシーヌは弓を差しだすような仕草をした。 「弓は扱ったことがないから」  ファーラムは困った顔をして、首を横に振った。 「剣ならすこしは訓練しているから、これで獲物を倒すとしよう」  ファーラムは腰に吊るした小剣を抜いて、珍しい物でも見るような目で、輝く刃を見つめた。 「そんなもので倒せる獲物なんているわけないでしょう。熊と真正面から戦うなら別だけど」  ミルシーヌは思わずため息をついた。 「獲物は取れなくてもいいから、せめて弓ぐらい引けるようになってよ」 「今度、練習しておこう」 「信用できないわね。手頃な獲物が見つかったら、あたしの弓を貸して……」 「どうしたの?」  ミルシーヌが途中で言葉を切ったので、ファーラムは怪訝《け げん》に思い、尋ねた。 「静かに! 向こうの丘の麓《ふもと》で何か動いたわ」  ファーラムは振り返って、ゆっくりと背後の丘を見渡した。  このあたりは瘤《こぶ》のような小さな丘が連なる丘陵地帯であり、夏になれば一面、緑の草に覆われる。この豊かな牧草を求めて、野生馬や野牛の群れが温暖な土地から移動してくる。馬は捕らえて飼い慣らし、牛は狩って食料とする。また毛皮や角からは、衣料や細工物を作ったりする。  だが、春先のこの時期は、獲物はあまり多くない。温暖で雪の少ない地方へ移動していたり、巣穴のなかで冬眠していたりするからだ。 「何が動いたんだい?」  ファーラムの目には、動くものは何も見えなかった。 「行くわよ」  ミルシーヌは小声で|囁《ささや》くと、丘の斜面を斜めに登りはじめた。 「そっちは逆……」 「まっすぐ向かっていったら、見つかるでしょ。相手の位置は確かめたから、この丘を越えて迂回《う かい》して近づくのよ。さいわい、逆風だしね」  ファーラムの目にはまだ獲物の姿は捕らえられていなかったが、ミルシーヌの言葉を疑う気はなかった。彼女の視力が並はずれて優れていることは、十分に承知していたから。  クユ族を保護しているカストゥール王国の拡大魔術師《エ ン ハ ン サ ー》たちは、視力を増幅させる呪文《じゅもん》を使うが、きっと彼女には不要だろう。 「姿勢を低く! 大きな音を立てないように!!」  前屈《まえかが》みの姿勢のまま、ミルシーヌは器用に丘を降りてゆく。ファーラムは彼女を見習いながら後をついてゆくが、遅れないようにするのは、かなりの苦労だった。  ミルシーヌは丘をいったん越えてから、丘の輪郭《りんかく》をなぞるように後戻りをはじめた。丘の稜線を利用し、獲物に姿を見られないように接近しようというのだ。  ミルシーヌはまったく無口になり、狩りに集中しているようだった。  ファーラムは彼女の後ろ姿を追いながら、わずかに笑みを浮かべる。彼女はまさにクユ族の狩人だった。  自分たちのいる丘から右隣の丘までのわずかな平地を、ミルシーヌは素早く移動した。ファーラムも、あわてて彼女の後を追う。いつのまにか、彼の額《ひたい》には玉のような汗が滲《にじ》んでいた。吹き寄せる向かい風に、その汗がこめかみの方向へと流れだしてゆく。  ファーラムが追いつくのを待って、ミルシーヌはふたたび小走りで進みはじめた。山猫のように瞬敏な足さばきだった。しかし、しばらく進むとその動きが突然、ゆっくりになった。ファーラムの動きも、彼女の影のようにゆるやかになる。 「見て……」  ミルシーヌは囁くように言い、向かい側に見える丘の麓を指さした。  今度は、ファーラムの目にも見えた。  彼女の指先が示す方向には、一匹の大猪の姿があったのだ。ファーラムたちに斜め後ろを向けているが、長く鋭い二本の牙《きば》がわずかに湾曲しつつ下顎《したあご》から突き出ているのが見える。  大猪との距離はだいたい五十歩ほど。遠目に見ても、かなりの大物だと分かる。体高は大型犬と同じくらいだろう。体重にすれば、その三倍ぐらいはあると思われた。  大猪は鋭い牙と固い鼻、それから前足とで、さかんに地面を掘り返している。餌《えさ》を捜しているのだろうか、それとも巣穴を掘ろうとしているのだろうか。 「大物だね。しかし、大物すぎて、わたしの手には余ってしまうよ」 「ちょっとね」  ミルシーヌは苦笑いを浮かべた。 「あなたの引いた弓じゃあ、あの分厚い毛皮を射抜くこともできないでしょうね」  ミルシーヌは腰に吊るした矢筒から、一本の矢を取りだした。矢尻《や じり》を同じく腰に吊るした小さな壷《つぼ》のなかに差しこみ、ゆっくりとかきまわす。どろりとした液体が付着し、銀色の矢尻が濃い茶色に染まる。  クユ族の狩人が大物を狩るときにだけ使う矢毒である。クユの言葉でムラクという草の根を丹念に煮詰めて作る猛毒だ。 「あの獲物は、あたしが仕留める。クユ族の狩りがどういうものか、よく見てるといいわ」  ミルシーヌはそう言うと、ぽんと飛びだした。それまでの慎重な行動が|嘘《うそ》のような大胆さだった。無造作とも思える足の運びで、するすると大猪に近寄ってゆく。口笛でも吹いているのではないかという軽やかさだった。  ミルシーヌは猪から三十歩ぐらいのところまで距離をつめると、ぴたりと立ち止まった。それから、弓に矢をつがえて弦を引き絞った。彼女は空に投げた果物《くだもの》が地面に落ちるあいだに、三木の矢を放ち、すべてに命中させることができるのだが、今は力一杯に弦を引き絞り、慎重に狙いを定めている。  大猪は、まだ彼女に気づいていない。あいかわらず、地面に穴を掘りつづけている。すでに猪の頭が隠れてしまうぐらいの探さになっている。 「見ていて、ファーラム。一撃で仕留めてみせるから……」  風に乗って、ミルシーヌの声が聞こえてきた。  驚きのあまり、ファーラムはその場から立ち上がっていた。獲物が気づいていないというのに、自分から声をあげるなど、彼の常識では考えられないことだったから。  案の定、大猪はびくりと動き、穴から顔を出すとミルシーヌの方を振り返った。  逃げだすのでは、と思ったが、大猪はそんな素振りは見せなかった。むしろ、威嚇《い かく》するような鳴き声をあげて、前足をかきこむような動作を繰り返す。二本の牙は、ぴたりとミルシーヌに向けられていた。  逃げられないと分かり、戦う決意をかためたのだろうか。大猪は肉食ではないので、人を襲うことはめったにないが、その牙の一撃をまともに食らえば、大怪我《おおけ が 》をするのは目に見えている。  一撃で仕留めるとミルシーヌは言ったが、失敗すれば間違いなく彼女は危険にさらされる。狩りのとき、大切なのは勇気であることを身をもって教えようとしているのだろうが、ファーラムにはいささか無謀なように感じられた。ひとりで狩りをしているときには、彼女とてこんな危険は犯さないはずだ。  そうまでして、ミルシーヌはファーラムの奮起をうながしたいに違いない。  だが、結局それは無駄な努力にしかすぎないのだ。ファーラムは狩人になることはできない。たとえ、彼自身がそれを望もうとも……  ミルシーヌと大猪は、睨《にら》みあったままぴくりとも動かなくなっていた。いつのまにか、風も止んでいる。  周囲は物音ひとつせず、ファーラムも知らず知らずのうちに息をひそめていた。太陽の光を浴びて枯草の乾いた|匂《にお》いがふと意識された。  緊張に耐えかねたのか、大猪が鼻を鳴らしながら、ぶるんと一回、首を振った。  それが、合図であったかのように、短い気合いの声とともに、ミルシーヌは矢を放った。  必殺の一矢であったと彼女は思ったに違いない。ところが——  矢が大猪に命中するまでのほんの一瞬のうちに予期しないことが起こった。横殴りの突風が、枯草で埋もれた丘の斜面を駆け降りてきたのだ。  ミルシーヌの表情が変わったのを、ファーラムは見逃さなかった。同時に彼は動きだしていた。全力で、ミルシーヌの許《もと》へと走る。  ミルシーヌの矢は、大猪の右目を貫いた。だが、それは彼女が狙ったところではなかったはずだ。一撃で仕留めるのなら、眉間を貫き、脳を射抜かねばならない。  苦痛の悲鳴を大猪はあげる。それはやがて怒りの雄叫《お たけ》びに変わっていった。 「ファーラム! 来ないで!!」  ファーラムが駆け寄ってくるのに気づき、ミルシーヌは必死の声で叫んだ。弓はその場に捨て、腰から小剣を抜いている。  もう一度か二度は矢を射る余裕はあるだろう。だが、速射になるので、強い矢は射られないし、正確な狙いもつけていられない。  手負いの大猪は、哮《たけ》りたってミルシーヌに向かって突進をはじめた。ミルシーヌは小剣の刃を前に突きだしながら、腰を落とした。 「下がるんだ、ミルシーヌ!」  ファーラムの声が背中から聞こえたが、振り返っている余裕などあるはずがなかった。二十歩ほどの距離など、この大猪ならば一瞬で駆け寄ってくるのだ。 「来ないでって言ってるでしょ!」  ミルシーヌはなかば怒りの声をあげていた。  ファーラムが自分を助けに来てくれるのは嬉《うれ》しいが、正直言って足手まといだ。それに、彼に万が一のことがあれば、ミルシーヌは族長の命令を守れなかったことになる。ファーラムを危険な狩りに連れだしたことも含めて、すべての責任は自分にある。命を差しだしても、償えるような失態ではない。なにより、ファーラムを失うことは、彼女自身にとって耐えがたいことだった。生まれた頃から、姉弟同様に育ったのだ。クユ族の人間にとって、親や兄弟、そして|伴侶《はんりょ》を守ることは絶対の|掟《おきて》であった。  その思いに心が乱されそうになり、ミルシーヌはあわてて頭から雑念を振り払った。  とにかく、命に代えても大猪は倒す。  ミルシーヌはそう心に誓い、かたく小剣を握りしめた。  そのとき、背後から詩歌《しいか 》のように響く不思議な言葉が聞こえてきた。 「エルア・マゥナ・ルラ・マティ……」  よく聞き取れないが、そんな音に聞こえた。 「ファーラム?」  わずかに首をまわして、ファーラムの様子をうかがった。  ファーラムは両手を複雑に動かしながら、不思議な言葉を唱えつづけていた。  ミルシーヌには言葉の意味は分からなかった。だが、その音には聞き覚えがあった。カストゥール王国の貴族たちが呪術を使うときに唱える言葉…… 「上位古代語《ハイ・エンシェント》!」  ミルシーヌはこれ以上はないほど、いっぱいに目を見開いた。突進してくる猪のことも、瞬間、忘れるほどに|狼狽《ろうばい》していた。  ファーラムが魔法を唱えようとしている。カストゥールの貴族のように。 「……ヴァナ・フレイム・ヴェ・イグロルス!」  真上に差し上げていた両手をまっすぐ前に突きだし、ファーラムは一際、高く上位古代語を唱えた。  ファーラムのふたつの手のひらのあいだに、小さな赤い輝きが起こったかと思うと、まるで矢のように宙を走った。  ミルシーヌのすぐ脇《わき》を通りすぎ、赤い輝きは突進してくる猪のすぐ目の前の地面に突き刺さった。  と、その瞬間。  まばゆい真紅の光が輝き、すこし遅れて轟音《ごうおん》が轟《とどろ》いた。ファーラムの手から放たれた輝きが炸裂《さくれつ》し、直っ赤な炎を噴きあげたのだ。  爆風の余波がミルシーヌにも襲いかかってくる。空いた手で顔を庇《かば》いながら、ミルシーヌはその場に屈んだ。  それでも、小剣は手放さない。大猪が突進してくるのに備え、剣先は正面に向けたままにしておく。  炎の爆発は、すぐに収まった。  爆発の中心近くの地面は、まっ白な灰で埋もれていた。そして、仰向《あおむ 》けにひっくり返ったまま、白煙をあげている大猪。  即死だったのか、すでにぴくりとも動かなくなっている。褐色の毛皮は炭化し、黒と灰色の斑《まだら》になっていた。片目に突き刺さっていたはずの矢は、影も形もなくなっている。燃えつきたのか、それとも爆風で吹き飛ばされたものか。  ミルシーヌは全身を震わせながら立ち上がった。小剣を腰の鞘《さや》に戻そうとしたが、なかなかうまくいかない。 「怪我はないかい?」  背後から、ファーラムが声をかけてくる。間違いなくクユ族の言葉だったが、ミルシーヌには、聞きなれない言葉のように感じられた。  前髪が焦げて縮れ、顔を庇った手がすこしひりひりしているぐらいで、たいした傷は負っていない。  だが、心が焼ききれてしまったように、何も考えられなくなっていた。 「ファーラム、あなたは……」  喉から絞りだすようにして、ようやくミルシーヌは声をあげた。その声も、震えていた。  ファーラムが心配そうな表情を浮かべて、ミルシーヌのそばにやってきた。  ファーラムのほうが頭ひとつ半ほど高いので、そばに寄られると、ミルシーヌは見上げるしかなくなる。 「大丈夫?」  微笑みながら、ファーラムは声をかけてくる。  その微笑みに救われたように、ミルシーヌはようやく平静を取り戻した。  頭が働きはじめると、様々な思いが浮かんでは消えていった。ファーラムが狩りや戦い方ではなく、カストゥールの学問ばかりを学んでいたことは知っていた。だが、ただの学問ではない、あの魔法王国の最高の文化であり、武力でもある呪術を学んでいたのだ。それは今日、初めて知った。そして、そのことが示すのは……  頭のなかで、ひとつの結論が形をなそうとしたとき、ミルシーヌは激しく身を震わせて、その考えを追い払った。  と、怒りにも似た感情が、むらむらと湧《わ》きあがってくる。 「余計なことを!」  ミルシーヌは叩《たた》きつけるように、ファーラムに言った。 「神聖な狩りに呪術を使うなんて! 獲物はただ殺せばいいんじゃない。捜して、見つけて、追いかけて、そして自らの手で仕留めなければならないのよ。獲物たちは、大地母神がわたしたちに与えてくれる恵みなのだから。邪悪な呪法で倒されたりしたら、獲物だって大地に還《かえ》ることができなくなる……」 「それは、すまなかったね」  ファーラムは寂しそうな表情をふと見せただけで、一言も弁解をしなかった。しようと思えば、いくらでもできただろうに。  あのまま大猪と小剣で渡りあって、無事でいられたとはミルシーヌも思っていない。大怪我をしたか、悪くすれば命を落としていたかもしれない。  だが、それは最初の一矢で仕留め損なった自分の失敗なのだ。狩人たる者、獲物に殺されることは、いつも覚悟しなければならない。カストゥール王国の貴族たちのように、一方的な殺戮《さつりく》を求めるのは、神の子たる人間が行うべき行為ではない。 「……集落に戻りましょ」  ミルシーヌはそう言って、くるりとファーラムに背を向けた。  激しい感情は過ぎ去り、虚脱感が心に残っていた。  ミルシーヌはファーラムを振り返ろうともせず、急ぎ足で集落への道を戻りはじめた。背後には、ファーラムの足音が続いている。  ファーラムがそばにいる。  それが物心がついてからずっと、ミルシーヌにとっての日常だった。そして、それはいつまでも続いてゆくのだと思っていた。  しかし、その日常が、陽炎《かげろう》のようにおぼろげなものであることを、ミルシーヌは今、思い知らされていた。      2  ファーラムたちが集落の近くまで帰りついたとき、集落の様子はあきらかに普段と異なっていた。  すでに日は暮れ、夜の闇《やみ》が空と大地を支配している。ファーラムたちを照らしているのは、中空に浮かぶ半月の光と、無数にまたたく星々の輝きだけだった。  そんな夜の闇を背景として、クユの集落はその全景を明々と浮かびあがらせていた。まるで収穫祭の夜のようだった。だが、集落を照らしだしている明かりは、盛大に焚《た》かれた篝火《かがりび》の炎ではなく、冷たく青白い魔法の光であった。 「いったい、何が……」  ミルシーヌは不審に思い、自然、急ぎ足になった。ファーラムは、一瞬、表情を強《こわ》ばらせたものの、その後は何事もなかったかのように平静を装っていた。ただ、歩調だけはミルシーヌに合わせる。  集落の間近まで来ると、金属製の鎧《よろい》に全身を包んだ戦士たちが等間隔に並んで、集落の周囲をぐるりと取り巻いているのが分かった。  ミルシーヌは怪訝そうな表情を浮かべ、ファーラムと顔を見合せた。 「あれは、近衛兵《こ の えへい》?」  戦士たちが身につけている鎧の左胸には、世界の真理を表わすという逆三角の紋章が描かれている。この紋章を着けることを許されているのは、魔法王《ウィッチキング》の名称で呼ばれるカストゥール国王直属の文人、武人たちだけである。  近衛兵たちは�強制《ギ ア ス》�の呪文と�精神支配《マインドコントロール》�の呪文をかけられ、魔法王その人だけに絶対服従を強いられている。付与魔術師《エ ン チ ャ ン タ ー》たちが創りだす魔法像や魔法人形といった魔法生物たちと同種の存在なのだ。 「よく知っていたね」  ファーラムは、意外そうに言った。 「食料を納めるため、去年の収穫祭のあと都へ行ったでしょ。そのとき、彼らが王城を警護しているのを見たのよ。でも、おかしいわ。近衛兵の役目は、魔法王の護衛のはず。それなのに、どうして蛮族の集落なんかに……」  ミルシーヌは|眉《まゆ》をひそめながら、不安げにつぶやいた。  ファーラムは何も言わなかったが、ミルシーヌが抱いた疑問の答は分かっていた。彼女が言うとおり、近衛兵の使命は魔法王の護衛なのだから、彼らがいる以上、魔法王その人がクユの集落を訪れているということだ。  ファーラムには、なぜ魔法王がこの集落を訪れたかの理由も分かっていた。 「いよいよ、というわけか」  ミルシーヌに聞かれぬよう、ファーラムはそっとつぶやいた。 「クユ族の者です。狩りのため外に出ておりました。どうかお通しを」  集落の入口に着くと、ミルシーヌは地面に座り、入口の警護をしていたふたりの近衛兵に向かって、深々と頭を下げた。  ミルシーヌはファーラムも、当然、自分に倣《なら》うと思っていた。子供でも知っていることだと思っていたからだ。だが、ファーラムは地面に座るどころか、頭を下げるような素振りさえ見せなかった。  ただ、 「通らせてもらうよ」  と言っただけだ。  ミルシーヌは目を見張って、ファーラムを見上げた。  正当な理由があれば、いや、たとえそんなものがなくても、上位階級の人間は下層階級の者をどのようにも処罰できる。近衛兵はカストゥール王国の貴族に準じる地位にあるのだから、市民や奴隷に対して生殺与奪の権限を握っているともいえる。  もっとも、彼らは魔法により心を殺されているので、楽しみのためだけに命を奪うようなことはしないだろう。だが、怪しい人間と判断したら、容赦なく剣を振るうはずだ。そして、ファーラムの行動は、ミルシーヌの目から見ても十分に不可解で、怪しいものだった。  ミルシーヌは近衛兵たちの動きに注意した。もしも、彼らがファーラムを殺そうとするなら、我が身と引き換えにしても、彼を守らなければならない。  しかし、近衛兵たちは剣を抜こうとさえしなかった。それどころか、ファーラムの前に片膝《かたひざ》をつくと、機械的な動作で畏《かしこ》まり、抑揚のない声で、 「どうぞ、お通りください……」  と言った。  ミルシーヌは驚いて言葉を失った。  もっとも、心のなかではファーラムの行動や近衛兵の態度に納得している自分がいることにも気づいていた。 「やっぱり、そうなのね……」  ミルシーヌは、胸の奥でつぶやいた。その思いが引き金になって、絶望が胸いっぱいに広がってゆく。 「さよなら、ファーラム」  ミルシーヌは別れの言葉を告げると、自分の家に向かって走りはじめた。  いつもなら、ファーラムを館まで送りとどけるところだ。そうでなければ、護衛役は務まらない。  しかし、今日はその必要はないだろう。そして、おそらくはこれからずっと。一言の相談もしていないのに、ふたりの近衛兵がファーラムの左右をかため、並んで歩きはじめていたから。 「さよなら、ミルシーヌ」  ファーラムの声が背中から聞こえてきた。  ミルシーヌは顔だけを振り返らせて、ファーラムを見た。  だが、そのときにはすでに、ファーラムは彼女の方を振り返ってはいなかった。近衛兵を従えて歩く姿は、もはやミルシーヌが知っている気弱で優しいクユ族の若者ではなかった。高貴ではあるが、冷淡な印象を受けるカストゥール王国の貴族の顔であった。  ファーラムはふたりの近衛兵を引き連れて、族長の館へと戻った。  族長の館の周囲にも、十人あまりの近衛兵が警護をしている。近くの家々からは、不安そうに事の成り行きをうかがっている人々の姿が見えた。  ファーラムは人々の好奇の視線を感じながら、館の中へと入った。ふたりの近衛兵はくるりと背を向けると、元の管轄《かんかつ》である集落の入口へ戻りはじめる。 「おお、ようやくお帰りになられたか」  ファーラムを出迎えたのは、族長のウバルであった。その顔には、安堵《あんど 》の表情がありありと浮かんでいる。 「良かったな。これで、クユ族五千人の命が救われた」  ウバルの隣にいた男が、そう言って皮肉めいた笑いを浮かべた。  その男は一目でカストゥール王国の貴族だと分かる服装をしていた。  金銀や宝石などで装飾された緑色の長衣《ロ ー ブ》をまとい、右手には奇妙にねじれた木の杖《つえ》を持っている。その先端には巨大な水晶球がはめこまれ、天井近くに浮かぶ魔法の明かりを反射して、鋭く輝いていた。  男の名はリハルトベルーガ・アズモウル。長衣の色が示すとおり、四大魔術師《エレメンタリスト》一門に属する魔術師である。もっとも、ベルーガは四大魔術師一門から追放されているので、本来なら緑の長衣を着る資格はないのだ。 「ファーラムシア様、奥の部屋で魔法王がお待ちです」  まるで奴隷が主人に対して取るような|慇懃《いんぎん》な態度で、ベルーガはファーラムに頭を下げた。 「そうか」  ファーラムは、軽く会釈をして、奥へ進んだ。  三歩下がって、ベルーガが続く。  族長のウバルはベルーガからさらに五歩下がって、上体を直角に曲げるような姿勢のまま恐る恐る進んだ。このクユ族の族長は齢《よわい》六十を超える老人である。普段の姿勢は壮年の男と少しも変わらないのだ。  |扉《とびら》の前に立つと、ファーラムは短く上位古代語《ハイ・エンシェント》を唱えた。  すると、樫《かし》の一枚板で造られた扉が、音も立てずに奥へと開いた。 「おう、戻ってきたか。狩りに行ってたそうだが、獲物は捕れたのか?」  部屋に足を踏み入れると、大きな声が彼を出迎えた。  その声が合言葉であったように、ファーラムの背後では開いたときと同じく、扉は何の音もたてずにぴたりと閉まった。  ファーラムは声の主に視線を向けた。  族長の館のなかで、ここだけはカストゥール王国の様式に統一された部屋のいちばん奥に、重厚感漂う玉座《スローン》が置かれていた。そして、ひとりの男がどっかりと腰を下ろしている。魔法王だけに着用が許された紫紺の長衣に身を包んで……  第百五十二代魔法王メルドラムゼー・パルサノスその人であった。  玉座の前には、縦長のテーブルが置かれ、そのまわりには異なった色の長衣を着た男たちが座っている。皆、カストゥール王国の貴族であり、魔術師たちだ。それぞれが得意とする魔術の系統は違う。共通しているのは、彼らが所属している魔術師一門のなかで軽く扱われていたり、追放されたりした不遇の者であるということだ。そして、全員が極めて優秀な能力の持ち主である。  ファーラムはその場で片膝を落とし、左手を胸に当てながら、深く頭を下げた。 「魔法主には御機嫌《ご き げん》うるわしく……」 「ここはカストゥールの王城ではない。儀礼にこだわる必要はないぞ」  豪放な笑い声が返ってきた。 「それでは……」  ファーラムはゆっくりと立ち上がり、部屋のなかの一同にかるく会釈をした。  魔法王を除いた全員が|椅子《いす》から立ち上がり、ファーラムに|挨拶《あいさつ》を返した。  ファーラムは空席になっていたテーブルの左奥の席に進み、ゆっくりと腰を落ち着けた。  彼が座席に着くのを待って、一同がふたたび着席する。  ベルーガも、ファーラムの斜め向かいの空いていた席に腰を下ろした。  ウバル族長はこの部屋までは入ってこない。扉のすぐ外で畏まっていることだろう。五千人もの部族の長であっても、カストゥール王国の市民階級にさえ序列されないのだ。  部屋のなかは一時、静寂に包まれた。一同のあいだに、緊張がみなぎっているのが感じられた。  ファーラムは微笑みを浮かべて、カストゥール王国魔法王であり、実の父でもある男に頷きかけた。  その無言の呼びかけに答えるように、長く伸ばした金色の髪と、それに劣らぬぐらい長い顎髭《あごひげ》がゆっくりと動きはじめた。 「時が来た」  右手をかるく掲げながら、厳かな声でラムゼーが言った。 「五千年の歴史を誇る我がカストゥール王国は変革を迫られている」  部屋に集った貴族たちはその言葉に深く頷いた。  偉大なる魔法の王国カストゥール——  その歴史は四千年とも、五千年ともいわれている。世界《フォーセリア》を創造した神々が大戦により滅び去ったあと、荒廃した大地に興《おこ》った人類最初の王国。  王国の創設期は、なかば神話であり、なかば伝説でしかない。  物質界と呼ばれるこの大地において、人間は非力な生き物でしかなかった。竜《ドラゴン》や巨人《ジャイアント》といった世界と同時に誕生した太古種族はもちろんのこと、神々の大戦のために異界より召喚された妖精《ようせい》族、精霊族。神々が創造し、精霊力や魔力を与えた幻獣や魔獣たち。いや、人間と同時に創られた動物や植物にさえ、人間よりも強い生き物がたくさん存在していた。  ただひとつ、人間が他の種族と異なっていたのは、神と同じ姿を与えられていたことだ。  神々の偉大さを讃《たた》え、その奇跡の力を支える役割を担うために。そして、人間は神々のみが知っていたいくつかの秘密、知恵と技とを伝授された。  そのなかのひとつに、魔法語《ルーン》と称せられる特殊な言葉があった。  魔法語は三種類に分かれている。  そのひとつは、神を礼賛し、その奇跡を懇願するための言葉。  またひとつは大自然の法則を|司《つかさど》る異界の存在、精霊と共感し、この力を操るための言葉。  そして最後のひとつは、もっとも強力な魔法語。万物の根源物質であり、万能なる基本力《エ ネ ル ギ ー》であるマナ。これを自在に操ることを可能ならしめる上古の言葉。  神々の大戦が勃発《ぼっぱつ》し、神々がその肉体を失い、その保護を失った人間は、滅亡する一歩手前まで追いこまれた。  この暗黒の時代において、人間が強大な他の種族に対抗してゆくには魔法語を操るしか方法がなかった。何より、無限の可能性を秘めた上古の魔法語を。  しかし、神々が人間に伝えたのは、上古の魔法語の基本の基本でしかなかった。  ここに十人の偉大なる賢者が登場する。彼らは集い、上位古代語《ハイ・エンシェント》と名付けた魔法語の研究を開始した。基本となるひとつの魔術、発展となる八系統の魔術、それらを統合した究極の魔術。合わせて十系統の魔術が体系化され、非力な人間は強力な力を得た。  この十人の大賢者の研究の開始が、カストゥール王国の建国とされている。  だが、三千年とも四千年ともいわれる暗黒時代において、カストゥール王国はたびたび滅亡している。強大な他種族との戦《いくさ》に敗れ、魔法文明の結晶ともいうべき都市を破壊されたためだ。だが、人間は不死鳥のごとく蘇《よみがえ》り、王国を再建してきた。  記録に残る最後の大破壊は、|単眼の巨人《サ イ ク ロ プ ス》族との戦によるものだ。  それから、二百年後に大陸《アレクラスト》の中央山地に興った王国が今日まで一千年あまり繁栄を続けている。現在では、大陸各地に数十の都市を建設し、異種族との戦にも敗れぬだけの力を保有している。  カストゥール王国の貴族、市民たちは、王国は安泰であり、この繁栄は永遠に続くと考えている。だが、表面的な繁栄の裏に、衰退の兆しを見出している者もいる。 「……世界と同時に誕生した太古種族、神々により創造されたままの能力を有する古代種族、その数が減少傾向にあることはもはや明白である」  魔法王ラムゼーはそう言うと、陰鬱《いんうつ》な表情を浮かべた。 「永遠の生命を有していたはずのエルフたちは、千年あまりしか生きられなくなっている。ドワーフ族は精霊魔法を換る能力を失い、巨人や竜たちでさえ、知恵と力、さらには彼《か》の種族固有の魔法を失いつつある。 そして、これは我《われ》等《ら》、人間についてもいえることなのだ」  ラムゼーの言葉は続いた。  魔法を操る人間の数が減少傾向にあるのだ。その象徴ともいえる事実が貴族と市民とに階級が分裂したことである。  それは、三百年前のこと。王国の人口が増加するとともに、魔法を操れぬ人間の割合も増えてきたのである。五百年前は、魔法的能力の欠如した人間は五人に一人しか存在しなかった。だが、それからの二百年のあいだに、その比率は逆転し、現在ではその格差は一対五十にまで拡大している。  また、都市以外の場所に住む蛮族と呼ばれる人間の増加も問題とされている。彼らはかつての太古種族や古代種族の代わりにカストゥール王国に対して戦を挑んでいる。蛮族たちは、原始的な魔法文化しか持ってはおらず、カストゥール王国の敵ではない。蛮族たちの多くは滅ぼされ、あるいは奴隷としてカストゥール王国に連れてこられた。  比較的賢明な蛮族の部族たちは、カストゥール王国に従属を誓い、食料を納めたり、労働に従事したりしている。その代償として、彼らは生存する権利と王国の庇護《ひご》を保証されている。  だが、反抗的な蛮族たちは大陸各地に潜伏している。そして思い出したように、カストゥール王国の都市や王国に従属している蛮族の集落に襲撃を加えている。 「我々、カストゥールの貴族は人間という種族の古代種である。一方、市民や蛮族たちは人間の下位種といえよう。大陸全土で太古種族、古代種族たちが衰退している事実を見るに、我々、人間だけが例外でいられるとは到底、思えぬ。ここ百年で貴族の絶対数も増加していると指摘する、愚かな楽観主義者もいる。だが、問題になるのは貴族の絶対数ではない。市民階級や、蛮族との構成比率なのだ……」 「まったくもって、陛下のお言葉どおり」  斜め向かいで、我が意を得たりというように、ベルーガがうなずく。 「百年先では遅すぎましょう。今こそ、行動に移すべきとき。その先頭に立ちうるのは、偉大なる先見性をお持ちの魔法王メルドラムゼー陛下しかおられません」  あからさまなベルーガの追従《ついしょう》の言葉に、部屋に集った一同のあいだには、苦笑を洩《も》らす者がいた。  だが、メルドラムゼーは表情を変えずに、力強くうなずいた。 「そう、百年先では遅い。いや、三十年先でも間に合わぬだろう。今こそ行動せねば、カストゥール王国は滅亡し、二度と再建されることはないであろう」  魔法王のその言葉には、全員が賛同の意を表わした。 「王国の繁栄に|溺《おぼ》れ、魔法文明の担い手たる貴族たちも堕落している。基本魔術《ソ ー サ リ ー》はおろそかにされ、八つの系統魔術《ブランチ》の至高とされる統合魔術《ウィザードリィ》を操る者もいなくなった。系統魔術の研究を目的として組織された一門《カレッジ》が派閥化し、権力争いのための集団と化したためだ。そして、諸君らのごとき優秀な魔術師《メイジ》に対して、家柄の低さのみを理由に不当な評価しかくだしていない……」  魔法王はそこで言葉を切ると、ゆっくりと玉座から立ち上がった。  それを待ち構えていたように、全員が椅子から腰をあげた。 「だが、最初にも言ったとおり、時は来たのだ!」  威厳に満ちた声で宣言し、魔法王ラムゼーは|拳《こぶし》を振るった。 「わたしは諸君ら有能でありながら不遇であった魔術師を召集し、統合魔術の研究を再開させた。そして、諸君らはふたつの偉大な成果を示してくれた。ひとつは無限の魔力を供給する魔法装置を完成せしめたこと。これにより、我《われ》等《ら》は己が精神の限界を超えた魔術をも行使できるようになる。そして、いまひとつは我が子ファーラムシアを|完全なる魔術師《ア ー ク メ イ ジ》として教育してくれたことだ。ファーラムシアは統合魔術師《ウィザード》一門の門主となり、そして我が王位を継承する者となろう」  いつもは冷静な魔術師たちであったが、魔法王の言葉に酔《よ》いしれたように歓声をあげた。それも当然だろう。ここ何十年もの努力が、ようやく実を結ぼうとしているのだ。 「近く、新たな魔法王を選定する王国最高会議が召集され、選帝公たる魔術師一門の門主たちが一同に会することになる。この会議の席上で、わたしは諸君らの成果を披露《ひ ろう》し、同時に魔法王の位を譲る意志のないことを宣言する。統合魔術を発展させ、無限の魔力を効果的に扱うには系統魔術の一門を解体し、魔法王のもとに強力な集権体制を敷かねばならぬ。我が提案に反対する者もいよう。門主たちの多くは、権力欲に取りつかれた亡者どもだからな。会議は決裂し、戦が起こることになる。だが、その戦に勝利するのは我々だ。そして、カストゥールは完全無比なる王国として、永遠の繁栄を約束されるのだ」  魔法王は力強い言葉で締めくくり、解散を宣言した。  そして、満面に笑みを浮かべて、ファーラムのところにやってきた。 「突然のことで、驚かせたか?」  ラムゼーは陽気な口調で、声をかけてきた。 「そろそろだろう、と予期しておりましたので、それほどには……」  ファーラムは|真面目《まじめ》な顔で答えた。  そう、彼はこのことを予期していた。三十年と決められた魔法王の在位期間が間もなく終わり、王位継承会議が開催されることを知っていたから。会議の席上で行動に出るのなら、本格的な準備を始めねば間に合わない。  どう考えても、反対する一門が出る。戦になるのは必至だろう。先手を取れるかどうかで、戦の勝敗は大きく左右される。この原則は蛮族同士の戦いでも、魔術師同士の戦いでも共通に作用する。  今、考えてみれば、ミルシーヌの目の前で魔法を使ってみせたのも、この時が近づいているのを意識すればこそだろう。  あの|火球《ファイアボール》の呪文は、彼女の危機を救いはしたが、同時に彼女への決別の挨拶ともなったはずだ。  まだしばらく、この集落に留《とど》まるつもりであれば、あのとき魔法を使うのに躊躇《ためら》いを覚えたはずだ。自分がカストゥールの貴族ではなく、クユの集落の若者でいるあいだは、ミルシーヌと対等に接することができる。まるで実の姉のように振る舞い、ファーラムを一人前のクユの男に鍛えようとする彼女が、ファーラムには何より愛《いと》しいのだから。  だが、もはやクユの男には戻れない。 「かわいげのない奴《やつ》め。おまえが驚いた顔を見るのが楽しみで知らせなかったのだぞ」  魔法王は豪快に笑うと、ファーラムの肩を二度、三度と強く叩いた。 「おかげで会議を開くのが、半日も遅れてしまったわ」 「それは、申し訳ありません……」  ファーラムは素直に頭を下げた。 「謝ることはないぞ。それよりも、このような下賎《げ せん》の地で、よくぞ辛抱してきた」  物心ついたときからこの集落で暮らしてきたので、別に辛抱していると思ったことはないが、ファーラムはあえて口には出さなかった。言ったとて、理解してもらえるはずがない。 「魔法王の御子息が蛮族の集落で暮らしているとは夢にも思いますまい」  ラムゼーとファーラムの会話に入りこむ|隙《すき》をうかがっていたのか、山吹色の長衣に身を包んだ男がそう声をかけてきた。  エルヴォーク・ドルロス。この席に集った魔術師たちの地位が一様に低いなかで、彼だけは創成魔術師《ク リ エ イ タ ー》一門の門主の地位にある。二十年ほど前に、門主の地位をめぐって、創成魔術師たちが内部抗争をはじめたとき、ラムゼーが魔法王の権限を利用し、強引な介入を行い、統合魔術会議の一員《メンバー》だった彼を門主の地位に据えたのだ。  この介入に異議を唱える者も多かったが、魔法王ラムゼーはまるで意に介さず、反対意見を封じたそうだ。 「さすがのレイブラシルめも、気付かなかったようですな」  そう言っで、エルヴォークは含むような笑い声をあげた。  それまで笑みを湛《たた》えていたラムゼーの顔が一瞬にして不機嫌になり、エルヴォークに背を向けるように、ファーラムと肩を並べた。  不興を買ったことに気がつき、エルヴォークは額に汗をかいた。謝れば、自分の非を認めることになるので、その場からそそくさと退散する。 「……創成魔術師《ク リ エ イ タ ー》の門主の言葉どおり、ふたりいたおまえの兄たちは精神魔術師《チャーマー》の門主レイブラシルに暗殺された。わしが王位の世襲を考えていることに気付きよったらしい。いや、気付いたのは、おそらく召喚魔術師《コ ン ジ ュ ア ラ ー》の門主アズナディールであろう。愚か者のレイブラシルめに、わしの考えが見抜けるはずがないからな。ともあれ、おまえの兄たちには気の毒をした、そして我が妻……、おまえの母にもな。だが、わしにはおまえが残った。おまえは、わしの偉業を引き継がねばならぬ。わしがこれから改革するカストゥール王国を、さらに発展させることこそ、ファーラムシア、おまえの役目なのだ」 「心得ております」  笑顔を浮かべて、ファーラムはうなずいた。 「ところで、父上……」 「おお、父と呼んでくれるか。それでよい。王国の古き儀礼になど従う必要はない。申したいことあれば、何なりと申してみよ」 「母と兄たちを暗殺したレイブラシルへの報復、いかがするおつもりなのでしょうか?」 「もちろん、許しはせぬ。来るべき戦のおり、かならずや滅ぼしてみせよう」 「その件について、わたしに考えがございます。兄たちを殺した憎き男。できますなら、我が手で葬りたいと思うのですが……」 「ファーラムシア、おまえ自身がか?」  怪訝そうな表情で、ラムゼーは問い返してきた。  ファーラムは、 「はい」  と返事をし、具体的な方策を父に語った。  ファーラムが語るにつれ、疑問の視線を投げかけていた魔法王の表情が、納得の表情に変わっていった。 「……よくぞ、考えついたものだな?」 「過去の記録を調べておりましたら、先例がありました。四百二十年前の最高会議における事件です。当時は大きな事件であったようですが、今では誰も覚えてはおりますまい。そのときの会議に列席していた死霊魔術師《ネクロマンサー》のアルヴィンスでさえ、忘れていることでしょう。ましてや、レイブラシルごときが知るはずがありません」 「なるほどな、その手を使えば、おそらく成功するだろう。だが、多少なりとも危険はある。戦に勝てば、復讐は果たせるのだ。無理をする必要はないと思うが……」 「いえ、この手で母の仇《かたき》、そして兄たちの仇を取りたいのです」  ファーラムはきっぱりと言った。  ラムゼーはまだ納得できない様子だったが、ファーラムの決意が揺るぎないことを看破して、 「分かった、やってみろ」  と言った。 「だが、ひとりで大丈夫か?」 「大丈夫だと思います。ですが、万全を期して、優秀な戦士をお付けください」 「優秀な戦士か。それならば、適任がおるわ。レパースを付けてやろう。おまえも、知っておろう」 「はい、よく存じております……」  ファーラムはかるく頭を下げて、魔法王である父に感謝の意を表わした。その戦士の名は知っていた。いや、忘れられるはずがない。その戦士は、ファーラムにとって異腹の兄にあたるのだから。 「だが、それほどまでに、おまえが兄の仇を憎んでいたとは、な」  不思議なものでも見るように、ラムゼーはファーラムをしげしげと眺めた。  だが、そんな視線は気にもならなかった。  とにかく、精神魔術の門主レイブラシルは、自らの手で倒さねばならないのだ。ファーラムにとっては十分な理由がある。  だが、その理由は父に語るつもりはない。語ったところで、理解されるはずがないからだ。  ミルシーヌならば理解してくれるだろう。いや、クユの集落の者ならば、誰であれ理解してくれるに違いない。  親、兄弟は命をかけて守らねばならぬ。  クユ族には、こんな掟がある。そして、掟はこう続くのだ。  親、兄弟を殺されたなら、自らの手で復讐を果たすのだ、と……  クユ族の男として行動するのはこれが最後だ、とファーラムは自分に言い聞かせた。  これからは、カストゥール王国の貴族、それも至高の魔術、統合魔術の門主として振る舞わねばならないのだから。  干した藁《わら》の上に薄い毛布を敷いただけの粗末なベッドに腰を下ろし、ミルシーヌは茫然《ばうせん》と部屋の壁の一点を見つめていた。  彼女の部屋には、南の山に棲《す》む大地の妖精族ドワーフとの交易で手に入れた高価なランプも置かれていたが、今はそれに灯りを点《つ》ける気にもならない。  もう夜なのだから、部屋のなかは真っ暗でもいいはずである。だが、窓の外には煌々《こうこう》たる魔法の明かりが輝いており、その青白い光が部屋全体をぼんやりと浮かびあがらせている。  先刻から、外が騒がしくなっていた。がしゃがしゃと重い金属音が聞こえるのは、近衛兵たちが移動をはじめているからだろう。  そのとき、隣の部屋からミルシーヌを呼ぶ声が聞こえてきた。  母の声だった。 「族長様がおいでですよ」  声はそう告げていた。 「族長……、おじい様が……」  いったい何事だろうと思って、ミルシーヌは立ち上がろうとしたが、その前に部屋の扉が開いて、族長が部屋に入ってきた。  明かりの関係か、族長の表情には疲れが感じられた。カストゥール王国の貴族たちを迎えて、緊張していたためかもしれない。 「ファーラムが……、いやファーラムシア様が行ってしまわれたよ」  族長ウバルは後ろ手に扉を閉めると、挨拶もなしに、そう切り出した。 「ファーラムが、行った……」  立ち上がろうと腰を浮かせていたミルシーヌだったが、族長のその言葉に、ふたたびベッドに腰が落ちた。  今まで我慢していたものが、ぷっつりと切れたようで、涙が頬《ほお》を伝って流れ落ちた。  ファーラムとの別れが、これほどまでに辛《つら》いとは自分でも思いもしなかった。 「この日が永遠にこないことを、わしも願っておった。わしにとって、殿下は本当の孫も同然だったからな。おまえと同じように」  そして、族長は本当の孫はファーラムの身代わりとなって王都で暗殺されたことを、ミルシーヌに告げた。  族長にとって孫であるなら、ミルシーヌにとっては実の従兄《い と こ》にあたる。ミルシーヌの母は族長の実の娘だからだ。族長にはもうひとり娘がいたが、今は魔法王付きの侍女となっている。  従兄が殺されたと聞いても、なぜか悲しみは湧いてこなかった。むしろ、そのおかげでファーラムが殺されずにすんだという安堵感さえ覚える。 「族長……」  族長の手が優しく髪に触れるのを、ミルシーヌは感じた。  涙を隠そうともせず、ミルシーヌは顔をあげた。 「殿下はお優しい方だ。カストゥール王国の貴族として生きてゆくのは、さぞかし辛かろう。わしが若ければ、たとえ奴隷に身を落としてでも、殿下のそばで仕えさせていただくのだがな。おまえの従兄のレパースのように……」 「レパース?」  そんな従兄がいることは初めて知った。 「いるのだよ。ラーラが産んだ子供だ。メルドラムゼー様の御子でもある」 「ラーラおばさまの……」  ミルシーヌは驚き、同時にわずかに頬を紅潮させた。十七歳という年齢はもう子供ではない。  族長の言葉がどういうことかぐらいは、彼女にも分かる。  欲望のために侍女と関係を持つ。貴族ならば、それぐらいのことは当然だと思っている。蛮族の女を狩りだし、性的な虐待を加える貴族たちがいるという噂を聞いたことさえある。 「そう、ラーラの息子は、ラムゼー様の護衛を務めている。強制の魔法も精神支配の魔法もかける必要のない忠実な近衛兵として、な」 「ラムゼー様のおそばで……」  なぜ、族長がわざわざ部屋を訪ねてくれたのか。そして、なぜ、こんな話を持ち出したのか、ミルシーヌには理解できたような気がした。  ミルシーヌの心のなかで、いくつもの感情が渦巻き、せめぎあいはじめた。だが、それもしばらくのことで、ひとつの感情が他を圧倒してゆき、ミルシーヌの心いっぱいに広がった。  その思いをかみしめながら、ミルシーヌはゆっくりと立ち上がった。  そして、族長の、祖父の顔を見つめた。 「族長様、わたしからもお願いします……」  ミルシーヌの言葉に、族長は深くうなずいた。そして、その老いた目にわずかに涙を浮かべながら、ミルシーヌを優しく抱きしめた。 「何があろうと耐えるのだぞ。そして、クユの誇りを忘れるでないぞ」      3  薄暗い広間に、銅鑼《どら》の音が鳴りひびいた。  最初に大きくひとつ、次いで小さく何回か連打され、ふたたび大きく二回、打ち鳴らされた。  巨大な青銅の円盤から発せられた轟音は、広間の隅々にまで響きわたり、窓ひとつない室内の澱《よど》んだ空気を激しく震わせた。  広間のほとんどは、巨大な円卓によって占められていた。円卓の外周は壁から数歩と離れていない。その幅は両腕をいっぱいに広げたほど。  円卓に囲まれた空間には何もなく、磨かれた黒曜石の床の上に、青白い光を放つ魔法の光球がまるで|光の精霊《ウィル・オー・ウィスプ》のように浮かんでいるだけだった。  �沈黙の間�と呼ばれるこの広間全体を照らすには、その光球はあまりにも小さかった。室内にあるすべてのものが、まるで幻覚の魔法の産物であるかのような印象を受ける。  それにしても、奇妙な造りの広間だ。正十角形に仕切られた壁には、それぞれ両開きの扉が設けられている。分厚い木製の扉だった。補強のために、鉄の板が何本も横に渡され、巨大な鋲《びょう》が紋様を描くかのように打ち付けられていた。その扉のすぐ脇には、先刻打ち鳴らされた青銅製の銅鑼がひとつずつ据えおかれ、そこに男がふたり張りつくように控えていた。ひとりは半裸の男で、銅鑼を打ち鳴らすための巨大な撥《ばち》を手にしている。もうひとりは白に金糸の刺繍《ししゅう》の入った短衣《チュニック》を着ており、象牙《ぞうげ 》色の羊皮紙を両手で支えるように保持していた。  扉と同じ配列に、円卓には十の座席が設けられていた。荘厳な装飾を施されたそれぞれの椅子には、重厚感のある長衣《ロ ー ブ》をまとった人物が、思い思いの姿勢で腰を下ろしていた。ただし、いまだ空席となっている座席がふたつあった。 「カストゥール国王、拡大魔術《エ ン ハ ン ス》の門主、メルドラムゼー㈵世陛下、ご到着にございます」  銅鑼の音の余韻はまだ室内に残っていたが、そのくぐもった音をかき消すように、高らかな告知の声が響いた。  銅鑼を打ち鳴らした男も、告知を行なった男も、同じ扉に控えている人物だった。その扉の前に設けられた座席は、空席であるうちのひとつである。  告知の声が終わると同時に、両開きの扉がゆっくりと左右に開きはじめた。ふたりの男が一歩ずつ扉から離れ、恭《うやうや》しく頭を下げる。開いた扉の隙間から、直っ白な光が溢れだしてきた。そして、扉が開くにつれて、目映《ま ばゆ》いばかりの光を背景に、影絵のように三つの人影が浮かびあがった。  扉が完全に開ききってから、三人の人物はゆっくりと広間の中に進みでてくる。彼らの背後で、扉はふたたび閉まりはじめ、目を眩《くら》ませるような光も次第に薄れていった。  広間の明かりが勝るようになって、ようやく、三人の姿形が影絵から実体をともなったものへと変化していった。  中央にいる人物は紫紺の長衣に身を包み、ミスリル銀製の王冠を戴《いただ》いている。魔法王メルドラムゼーである。  鷹《たか》のような目で、円卓に着席している人々を見回しながら、左手で胸のところまで伸びた顎髭に手を当てる。それから、いかにも面白《おもしろ》くなさそうに魔法王は鼻を鳴らした。  彼の左右に控えるのは、ともに若い男だった。左側にいる若者は、紫紺の長衣を身にまとっている。そして、頭には略式の王冠を載せていた。  右側の男は、市民階級の者が身につける短衣に身を包み、巨大な大剣を手にしていた。そして、その野蛮な武器を扱うに十分な、発達した筋肉の持ち主だった。  三人の姿を見て、円卓についた人々の間からざわめきが洩れた。と、ひとりが椅子を蹴るように立ち上がり、魔法王に指を突きつけた。 「いったいどういうことかな、魔法王メルドラムゼー。この沈黙の間には、伴《とも》の者を連れてはならぬのが慣《ならわし》。それを魔法王自ら破るとは非常識にもほどがある。しかも、ひとりはあきらかに蛮族の男ではないか。ここはカストゥール王国のもっとも神聖な場所。卑しき身分の男が、来るべき場所ではないわ!」  男は銀色の髪をした壮年の男であった。  その髪をすべて後ろに流し、広い額がことさら強調されて見えた。  その眉間のあたりに、深い縦皺が刻まれているのが、男の怒りの激しさを表わしていた。糸のように細い目が、鋭利な刃物の鋭さで魔法王ラムゼーに向けられていた。  アズナディール・ロンヴァビル。  召喚魔術《コンジュアリング》の門主にして、次期魔法王と目されている人物である。 「ディール公、無礼ですぞ。仮にも相手は、魔法王なのですぞ」  反論に立ったのは、山吹色の長衣をまとった初老の男である。創成魔術の門主、エルヴォークだった。  ラムゼーの使い魔めが、と誰にも聞こえぬようにつぶやきながら、アズナディールは敵意のこもった視線でエルヴォークを睨みすえた。 「……今は貴公の言うとおりだ、創成魔術の門主よ。だが、魔法王メルドラムゼーの任期はつきようとしている。今宵《こ よ い》は、次なる王位を選ぶための会議ではなかったのかな」 「ディール公の言うとおりだ。それゆえ、わたしは選帝公であり、王位継承権者でもある貴公らを召集したのだからな。遠路はるばる御苦労であった」 「移送の扉を使えば、一瞬の旅。苦労なぞあるものか」  アズナディールは、自らの席に腰を下ろした。 「それよりも、急ぎ会議を始めていただきたいな。時間は|魔力《マナ》と同じく貴重なものなのだぞ」 「まったくだ」  ラムゼーは薄笑いを浮かべて、王位継承会議の開会を宣言し、自らの席に着いた。 「まず貴公らに紹介せねばならない男がいる。ここにいる若者なのだが……」  魔法王の言葉に応じるように、彼の後ろに控えていた紫紺の長衣の若者が、円卓のそばまで進みでた。 「我が息子、ファーラムシアである」  魔法王は威厳と誇りをもって、ファーラムを紹介した。 「息子だと!?」  その言葉に、碧緑の長衣を着た男が立ち上がって、叫ぶように言った。  この男がレイブラシルか、とファーラムは|驚愕《きょうがく》の表情を浮かべる小太りの男に、冷やかな視線を投げかけた。 「初耳だな。魔法王には、もはや御子息はおられぬものと思っていたよ」  アズナディールはさすがに動じた様子はない。ファーラムにも一瞥《いちべつ》をくれただけだった。 「今、貴公の目に見えているとおりだ」  ラムゼーは、短く答えた。 「わしには二人の息子がおった。その二人が二人とも、幼少の頃に不思議な死を遂げた。これがいかなる理由によるものか、今はあえて問うまい。幸いなことに、三人目の息子であるこのファーラムシアは、無事、育ってくれた。王都以外の場所で育てたので、皆に披露が遅れてしまったがな」 「それは、なにより。見知りおこう」  アズナディールは皮肉めいた笑いを浮かべながら言った。 「そうしてやってくれ」 「だが、カストゥールの王位は世襲ではない。魔法王としては、残念なことだろうがな」  辛辣《しんらつ》さを取り戻したアズナディールの言葉に、ラムゼーは嘲笑《ちょうしょう》を浮かべただけだった。  それを見て、アズナディールの顔がふたたび険悪なものになった。 「貴公の言うとおりだ。カストゥールの王位が世襲でないことは、いかにも残念なことだ。わしの偉大な業績を引き継ぐべきは、このファーラムシアをおいて他にはないと思っておったからな」 「偉大な業績だと? メルドラムゼーよ、おまえがどのような業績を残したというのだ」  魔法王に対する敵意を隠そうともせず、アズナディールは笑い声をあげた。  彼の向かいに座っていたレイブラシルも、薄笑いを浮かべている。 「我が業績はふたつある」  メルドラムゼーはゆっくりと右手を上げると、指を二本、立てた。 「聞いたことがない」 「当然だよ、ディール公。公表した覚えが、わしにはないのだからな」 「では、今、この場で公表するがいい。魔法王メルドラムゼー陛下の偉大なる業績とやらをな」 「よかろう……」  うなずいて、メルドラムゼーは椅子から立ち上がった。 「ひとつめは、ある魔法装置を建造したことだ。その魔法装置は無限の魔力を供給する……」  �魔力の塔�と名付けた、と魔法王ラムゼーは続けた。そして、その魔法装置の機能を語ってゆく。その魔法装置は大地から風から光から闇から、ありとあらゆる自然の力を|魔力《マナ》に変換し蓄える。そして、その魔力は特殊な水晶球を介せば、誰もが使うことができる。 「巨大な魔晶石だと思ってもらえばいい。魔晶石を使えば、術者は自らの精神を消耗させることなく、魔術を発動させることができる。ただ、魔晶石に蓄えられる魔力には限界があった。魔力の塔はその限界が取り払われたものにすぎぬ」  ラムゼーの口調は淡々としていたので、その言葉の意味が理解されるまで、しばし時間が必要だった。そして、理解されてゆくにつれ、沈黙の間はその名を裏切るかのごとく騒然としはじめた。 「無限の魔力ですと……」  付与魔術の門主ブランプナスが立ち上がり、呻《うめ》くように言った。彼はこの最高会議の長老ともいえる人物で、その公明正大な人柄には、全員が敬意を払っている。 「もしも、それが真実ならば、カストゥールの歴史上もっとも偉大な発明といえましょう。魔力が無限に得られるならば、今まで実行不可能とされていた大魔術も現実のものとなりましょう」 「このラムゼー、あなたには嘘は申しませんよ」 「だが、わしには信じられぬのだ。ラムゼー王は拡大魔術《エ ン ハ ン ス》の門主。魔法装置を開発するのは、我等、付与魔術師《エ ン チ ャ ン タ ー》の役割であるはず……」 「もっともな疑問ですな。その疑問に対する答こそ、わたしの第二の業績なのです……」  そして、ラムゼーは統合魔術を復活せしめたことを厳かに宣言した。 「我が息子ファーラムシアこそ、この統合魔術《ウィザードリィ》の奥義を極めてゆく者。統合魔術の門主なのだ。それゆえ、魔法王を継承させるに、世襲を云々《うんぬん》する必要はなかったのだがな」  自嘲的な笑いを浮かべ、ラムゼーはアズナディールを一瞥した。 「無限の魔力を供給する魔法装置、統合魔術の復活、いずれも偉大なる功績です。このブランプナス、心からの賛辞を贈らせていただきましょう」 「……ラムゼー王の業績は、たしかに認めずばなるまい」  これ以上ないというほど渋い表情で、アズナディールは円卓をこつこつと指で叩いた。 「だが、魔法王たる者、王国のために尽くすのは当然のこと。それに業績というなら、わしとて劣るものではないぞ。強大な魔神族の棲む異界を探りあてたのだ。数百年ものあいだ敵対してきた巨人族を滅ぼし、巨大な都市をいくつも造った。奴隷たちも使わず、魔力も消耗せずな」  そのアズナディールの言葉に偽りはなかった。それゆえ、次の魔法王には召喚魔術の長こそがと囁かれていたのである。 「誤解しないでもらいたいな、アズナディール」  メルドラムゼーは哀れむような視線を、召喚魔術の門主に向けた。 「わしは議論をするつもりはないのだよ。魔法王の位は貴公に譲るつもりはない。わたしはこの命尽きるまで、王位に留まりつづける。そして、わしの次に王位を継承するは、我が息子にして統合魔術の門主ファーラムシアである。これは提案ではなく決定だ。この決定に不服の者は、戦をもって異議を唱えるがよい」 「気でも狂ったか、メルドラムゼー」  どちらかといえば色白の顔を真っ赤に紅潮させて、アズナディールは立ち上がった。 「わしは正気だよ。このまま古き慣習に囚《とら》われていては、このカストゥール王国は衰退し、やがて滅亡する。無限の魔力と統合魔術をもって、わしは王国を変革する。貴公では力不足だよ、アズナディール。聞けば魔神族の異界を見つけだしたのも、ただの偶然だそうだな」 「おのれ! ラムゼー!!」  アズナディールは激昂《げきこう》し、円卓に力一杯、拳を叩きつけた。 「よかろう、貴様の望みどおり、戦をもって異議を唱えよう。我が数千の魔神軍団がこの王都を近日、焦土と変えることを宣言するぞ。わたしに賛同する者は、今、この場でその意志を表明せよ。魔法王に与《くみ》する者はもちろん、中立を唱える者も、王国に対する反乱とみなすぞ」  アズナディールの言葉に、門主たちが顔色を変えた。彼が支配する魔神どもは、現在のカストゥール王国において、もっとも強力な軍団だったからだ。太古種族として、古竜に匹敵するほどの力を誇っていた氷の巨人族も、彼の魔神軍団によって滅ぼされたのだ。 「魔法王、ディール公の意見に賛成するものではありませんが、あなたの決定は強引にすぎます。思いなおしてはいただけまいか。千年もの長きに渡って続いた慣習を変更するのです。早急に結論を出すことなく、時間をかけて討議すべきだと思うのですが」  ブランプナスが穏やかな口調で進言した。 「戦となれば、いずれが勝者となっても、大きな損失が出ます。都市は破壊され、多くの貴族、市民たちが命を落とすでしょう」 「わしの決定に従えば、争いにはならぬ」 「しかし、魔法王……」  ブランプナスはその先を続けようとしたが、魔法王の表情が微塵《み じん》も動かないのを見て、すべてをあきらめたように首を振った。 「異議ある者はその旨《むね》を宣言し、ただちにこの沈黙の間より退出せよ。戦の開始は、貴公らがこの広間から出た瞬間であると思え。中立を守る者も、そう宣言し、退出せよ。わたしはディールとは違い、中立を守る者を攻撃したりはせぬ。戦の後には現在と変わらぬ境遇を約束しよう。さあ、門主たちよ。それぞれ、自らの意志を表示し、この沈黙の間より去るがいい。会議はこれにて解散ぞ」  魔法王は激しい口調で、宣言した。  そして、彼はカストゥール王国を支配してきた各魔術の門主に対し、ひとりひとり問いただすような視線を向けた。  アズナディールが荒々しく席を立つと、自分の座席の後方に設けられた扉へと向かった。撥持ちが大慌てで銅鑼を連打し、呼び出しが彼の退出を宣告する。  アズナディールに追随するように、精神魔術の門主が魔法王と敵対することを宣言し、沈黙の間から去っていった。 「わたしはディール公の味方をするものではありませんが、古き慣習に従いたく思います。恐れながら異議を唱えさせていただきましょう」  ブランプナスが魔法王に軽く頭を下げてから、ゆっくりと背を向けた。  その言葉は残りの門主たちに、少なからず動揺を与えた。付与魔術の門主は偉大な魔法の宝物をいくつも保有しており、その宝物の魔力がいったいどれほどのものか、正確に把握《は あく》している者はいないのだ。加えて、彼が支配している都市レックスは、空中に浮かぶ巨大な要塞《ようさい》である。難攻不落といってよい。  ブランプナスの去就を見て態度を決めたのだろう。基本魔術の門主が魔法王と戦う旨を宣言した。 「わたしは中立を守りたいと思います。魔法王の考えには賛成できませんが、戦をするつもりはありませんので……」  幻覚魔術《イリュージョン》の女性門主メルフィエスが、悲しそうに首を振りながらゆっくりと席を立った。 「アズナディールの魔神軍団に攻められたときには、遠慮なく援軍を求められるがよい」  魔法王はそう言葉をかけて、幻覚魔術の門主たる少女を見送った。  創成魔術の門主と四大魔術の門主は魔法王に味方することを宣言した。  最後に、死霊魔術《ネクロマンシー》の門主が中立を申し出て、広間から去っていった。  その死霊魔術の門主、アルヴィンス・デラクロスは不死性を得た存在となっている。�生命なき王�と呼ばれる負の生命で生きる不死生物《アンデッド》となっていたのだ。 「わたしはここ数百年のあいだ、門主の地位にあったが、今回の王位継承会議がもっとも面白いものだった。わたしには無限の魔力などもはや不要のものだ。そして、ディール公とは違い、自らが魔法王となる野心もない。貴公ら定命の者の争いを拝見させてもらおう。久しぶりに楽しい時が過せそうだ。これほどの大きな戦は、このカストゥール王国の歴史、はじまって以来だろうからな」  死霊魔術の門主のうつろな笑いが、死神の声のように響いた。だが、王国を二分する大戦のはじまりには、相応《ふ さ わ》しいものであったかもしれない。  そして、ファーラムシアにとっては、まさに戦をはじめるときであった。      4  精神魔術《チャーム》の門主レイブラシル・コストラルダは蒼《あお》ざめた表情で、�移送の扉�から姿を現わした。この扉は異なる空間を直接結ぶ魔法装置で、カストゥール王国の王都ラシッドから、彼が太守として治めている都市ナハルまで、歩けば何週間もかかる距離を、一瞬で移動できるのだった。  扉の番人である奴隷兵が、主人の帰還を見て、ぎこちない動作で頭を下げた。精神支配を受けている者独特のぎこちなさである。  レイブラシルにしてみれば、今日の会議は予想もしない展開となった。彼はこの会議が始まる前、召喚魔術《コンジュアリング》の門主アズナディールの訪問を受けた。アズナディールは、次期魔法王には自分を推すことを確認しにきたのであった。  自分が魔法王となったときには、|宰相《さいしょう》としての地位を、アズナディールは約束してくれた。  レイブラシルが門主となっている精神魔術師《チャーマー》一門《カレッジ》は、昨今、王政の主流から外れている感があったので、アズナディールの申し入れは願ってもないことだった。もちろん、ふたつ返事で了承して、協力を誓った。  だが、王位継承会議があんな結果になろうとは予想だにしていなかった。メルドラムゼーが息子に王位を継承させたがっていることは、昔から知っていた。だからこそ、警告の意味もこめて、ラムゼー王の三人の息子を抹殺したのだ。  だが、そのひとりは、どうやら身代わりだったようだ。それとも、息子というのは偽りで、どこからか養子でももらったのだろうか?  最高会議で魔法王自ら戦を宣言するなど、過去に例のないことだ。魔法王から突然、去就を迫られ、ディール公との約束を信用することにしたものの、それがはたして最良の方策だったのか、疑わしく思えた。  アズナディールの魔神軍団は強力無比にして無慈悲な殺戮者である。敵にすればこれほど恐ろしく、味方にすれば頼もしいものはない。しかし、魔法王がもし無限の魔力を得たのだとすれば、彼の力も決して侮《あなど》ることはできない。  とにかく、一門の有力貴族を召集しなければならない。今日の会議の報告をして、戦の準備をはじめねばならないのだ。  レイブラシルは、額に流れる冷たい汗を長衣の袖口で拭《ぬぐ》いながら、側近を呼んだ。  門主の早すぎる帰還に、驚きの表情をあらわにしながら、側近が姿を現わした。たっぷりと太った身体を揺さぶりながら、レイブラシルのところまでやってくる。 「いかがなさいました? 今日は新しい魔法王を決める重要な会議とうかがっておりましたので、長引くものとばかり思っていたのですが……」 「わしもそのつもりであった。だが、話が途方もない方向へ進んでな。くわしくは後で話すが、一門に属する貴族をただちに召集しろ。この都市から離れている者も、すぐに呼び出すのだ。いいな、急いでだぞ」  レイブラシルのあわてように、側近は不安をつのらせた。  最高会議で何か事件が起こったのだろうか。この場で理由を問いたい衝動にかられたが、急げと言われて、それに反することができようはずがない。側近は、その衝動を胸のうちにだけ抑えておくことにした。 「門主様のお言葉どおりに……」  深々と礼をして、側近は主人の命令を実行するために、その場から立ち去ろうとした。  と、レイブラシルがふたたび彼を呼び止めた。すでに二、三歩進んでいたが、その場で立ち止まると振り返って門主の言葉を待った。 「言い忘れておった。すべての移送の扉を封印し、出入りができぬようにしておけ。都市の入口も閉ざし、すべての出入りを禁止せよ。対魔法の結界を張ることも忘れるな。それから、一門の貴族、市民階級の全員の調査を行え。怪しい者は魔法を使って、心をすみずみまで探査しろ。どうやら、魔法王に内通している者が一門のなかにいるらしい。そやつらは見つけしだい、地下牢《ち か ろう》に監禁しろ。抵抗する者は、殺してもかまわん」  御意と答えて、側近はふたたび振り返ろうとした。だが、彼の視線の先で異変が起こり、その動きがぴたりと止まった。 「門主様……」  あんぐりと口を開けて、たった今、主人が戻ってきたばかりの移送の扉を指差した。  何事かと、レイブラシルは扉を振り返る。  見れば、移送の扉が開きはじめている。この扉は王都ラシッドの�沈黙の間�にだけ繋《つな》がっている。それが開くということは……  レイブラシルは、いろいろと思索を巡らせながら、扉が開くのを待った。  いつものように目映い光が溢れだし、扉の中から人影が現われた。その数はふたつ。魔法王メルドラムゼーが交渉にやってきたのかもしれない、とレイブラシルは用心深く人影を観察した。  扉は完全に開ききり、人影がまっすぐ前に進みでてきた。 「おまえは……」  光が収まりはじめ、ようやくレイブラシルは、扉の向こうからやってきた人物が誰かを知ることができた。  姿を現わしたのは、魔法王の息子と紹介された人物だった。今まで密《ひそ》かに育てていたぐらいなのだから、もちろん初対面である。確か、ファーラムシアという名前だった。女のような名前だと、レイブラシルは密かに思ったものだ。  若い貴族の隣には、やはり沈黙の間で見かけた蛮族の護衛の姿があった。 「何用だ、魔法王の息子よ。交渉があるならば、魔法王自らが出向いてくるべきではないか」  若造めがと心の中で吐き捨てながら、恫喝《どうかつ》するような強い口調で、レイブラシルはファーラムに問いただした。 「交渉であるならば、父が出向くのが本筋でしょう。しかし、あいにくとわたしは交渉しにきたのではありません」  レイブラシルの恫喝など意に介した様子もなく、魔法王の息子はそう返事をした。  穏やかな話し方ではあるが、それがかえって癪《しゃく》に触った。 「ならば、何用だというのだ!」  レイブラシルは若者を激しく怒鳴りつけた。相手を怯《おび》えさせれば、交渉は有利に運ぶものだ。  魔法王の息子は色白で、女性的な柔らかさが感じられた。娘たちに、もてはやされそうな容姿をしている。もっとも、そういう娘どもに限って、夜の相手には蛮族の男がよい、などと平気な顔で言ってのけるのだが。  ファーラムシアを護衛している蛮族など、その役目にぴったりの肉体の持ち主だ。もし、譲り受けられるものなら譲り受けたい。きっと高値で売れることだろう。  俗物的な考えが浮かび、レイブラシルは薄笑いとともに、それらを頭の片隅へと追いやった。 「何用かとおっしゃられる……」  若者は心外だというように肩をすくめた。そして、護衛の男に向かって、目で合図を送った。 「分かりませんか、精神魔術の門主どの。わたしは戦《いくさ》をしに参ったのですよ」 「戦だと!」  レイブラシルが驚いて声を上げたのと同時に、蛮族の戦士が動いた。背中に隠し持っていた大剣を、いきなり引き抜いてそれを振りかざしたのだ。 「若造が、小癪《こしゃく》なことを!」  怒りの叫びをあげ、レイブラシルは走りよってくる蛮族の戦士に向かって�精神支配�の呪文をすばやく唱えようとする。精神魔術師であるレイブラシルが、もっとも得意とする魔法だった。  精神魔術師に向かって、よりにもよって蛮族の戦士を差し向けるとは、致命的な失敗である。魔法に対して乏しい知識しかない蛮族たちは、魔法に抵抗するための方法さえ知らず、いとも簡単に術中にはまるのだ。  この愚かな魔法王の息子は、自らが連れてきた刺客の手にかかって死ぬことになる、とレイブラシルは心の中で嘲笑した。  十五年前に果たせなかったことが、今頃になって実現しようとは。 「……フェルデ・エスケル・ミア・ローファ!」  レイブラシルの呪文は完成した。  最高の精神魔術師が唱えた呪文である。蛮族の男などに抵抗されるはずがなかった。  レイブラシルは、自分の勝利を確信していた。  ファーラムシアは、レイブラシルよりも一瞬、遅れて行動に移った。  透きとおるような声で、上位古代語を唱えながら、右腕を弧を描くように動かしてゆく。  当然、レイブラシルより、呪文の完成は遅れる。すでに、レパースはレイブラシルの魔法の影響下にあった。呪文の言葉から、レイブラシルが唱えた魔法が、精神支配であることはすぐに分かった。そして、それこそがファーラムの狙いだった。 「……ミズィ・マゥナ・オルセ・デ・ロット!」  ファーラムの呪文も完成した。 �魔力解除�の呪文である。レパースの精神を支配していた魔力が、ファーラムシアの呪文の魔力と相殺《そうさい》され、一瞬にして消滅した。  魔法の影響から脱したレパースは、ふたたびレイブラシルに向かって、切りかかってゆく。 「こんなことが……」  自信をもってかけた魔法が、いとも簡単に打ち破られたことにレイブラシルは衝撃を覚えた。目の前にいる若者の魔力のほうが、精神魔術の門主である自分を上回っていたというのだろうか。 「そ、そうか、無限の魔力! 貴様は無限の魔力の支援を受けているのだな!!」  レイブラシルは、叫んだ。  そのときには、蛮族の戦士はすぐ目の前まで迫っていた。怒りと憎しみ、恐怖と絶望とが精神魔術の門主の心をいっぱいにする。蛮族の剣を避ける余裕も、次なる魔法をかける余裕も、レイブラシルには残されていなかった。 「レイブラシル様!」  側近があげた悲痛な叫びが、精神魔術の門主の聞いた最後の言葉となった。  肩から胸のあたりまで、ざっくりと大剣で切り下ろされ、精神魔術の門主レイブラシルは、天井に届くかというほどに、高く血しぶきを噴《ふ》きあげながら仰向けに倒れていった。  床に落ちるより先に、おそらくレイブラシルは息絶えていたことだろう。  レイブラシルの長衣は流れでた血で真っ赤に染まり、幻覚魔術師《イリュージョニスト》の一門の者のように見えた。  血の海のなかで動かなくなったレイブラシルを見下ろしながら、ファーラムシアは哀れむような光をその目に湛《たた》えていた。 「戦の開始は、沈黙の間を去ってすぐだと父は宣言したはず。扉を封鎖するのが遅れた、あなたが愚かだったのです。他の門主たちは、沈黙の間から戻ると同時に、移送の扉を閉ざしているというのに……」  ファーラムは主人の変わり果てた姿を見つめながら、茫然と涙を流している側近らしき男に声をかけた。 「あなたが見たありのままを、精神魔術師一門に報告しなさい。精神魔術の門主レイブラシルは、魔法王メルドラムゼーの息子ファーラムシアに成敗されたと……」  そして、ファーラムはレパースに向かって、王都に戻ろう、と声をかけた。  レパースは無言でうなずき、レイブラシルの死体に短く黙祷《もくとう》を捧《ささ》げてから、ファーラムのところへと戻ってきた。  ファーラムにとって腹違いの兄にもあたる屈強の戦士は、返り血を全身に浴びて、赤く斑に染まっていた。 「御気分はいかがでしょうか? 気分が悪いようなら、吐いてしまわれたほうが、楽になると存じますが……」 「ありがとう、レパース。あまり気分はよくないが、思ったほどではないよ。先日、狩りのとき、大猪を殺したが、そのときよりましかな」  ファーラムは答えて、かるく咳《せき》払いをした。初めて見る凄惨《せいさん》な光景に、吐き気は覚えるが、ここで醜態をさらすわけにはいかない。精神魔術師たちには、冷酷無比な男であるとの印象を与えておいたほうが、後々、役に立つことだろう。 「とにかく、これでクユ族の掟は果たせたな。わたしにとっては、母とふたりの兄の仇。おまえにとっては、従弟の仇となるかな」  ファーラムの身代わりとして、ひとり息子の忘れ形見を父ラムゼーに捧げた、族長の無念も晴れたことだろう。  しかし、それにしても…… 「この王国で無事、生きてゆくには、一瞬たりとも気を抜いてはいけないな」  ファーラムは独り言のようにつぶやくと、開いたままになっていた移送の扉へと足を踏み入れた。 「どうやら、成功したようだな」  移送の扉から姿を現わしたファーラムたちを出迎えたのは、魔法王ラムゼーと創成魔術の門主エルヴォークだった。  撥持ちや呼出したちもすでに去り、沈黙の間に残っているのは、魔法王メルドラムゼーとエルヴォークのふたりだけになっていた。  ふたりは魔法王の座席がある一画で、これからの対策を相談している様子であった。 「……御無事で何よりです、ファーラムシア様。御自身で提案されたこととはいえ、まことに見事なお手際、このエルヴォーク、深く感心いたしました。まあ、欲を言わせていただければ、レイブラシルではなく、アズナディールめの命をお取りいただきたいところでしたがな」 「あの男には、小細工など通用せんよ。野心的ではあるが、決して無能ではない。それに、最大の敵を最初に葬ってしまっては、後の楽しみがなくなるというものだ」  魔法王は豪快に笑った。  そして、円卓を二度、乗り越えて戻ってきたファーラムの肩を軽く叩いて、その労をねぎらった。 「御苦労であった。これで精神魔術師一門は、組織的には戦えまい。門主の地位をめぐって、内部抗争でも起こってくれればこちらにとって好都合なのだがな」 「可能性はあると思いますが、さて、どうでしょうか?」  ようやく気が休まり、ファーラムは深くため息をついた。魔法をひとつ使っただけだが、ファーラムは自分がかなり疲労しているのに気がついた。  レイブラシルはファーラムが無限の魔力を使ったと思ったようだが、あいにくファーラムは自分自身の力にしか頼っていない。そして、相手はまがりなりにも精神魔術師一門を統べる門主の地位にある男だ。その魔力が、低かろうはずがない。ファーラムも全力で�魔力解除�の呪文をぶつけねばならなかったのだ。  魔晶石の力を借りることなく魔法を使うと、術者はひどく消耗するものだ。  このままの状態では、もう一度、魔法が使えるかどうかさえ疑問だった。 「青い顔をしておるな。今日は、休んだほうがよかろう」  ファーラムの様子に気付いたらしく、メルドラムゼーがそう声をかけてきた。その言葉には、父親らしい思いやりが感じられた。  ファーラムはそれを嬉しく思う。カストゥール王国の貴族たちは、家族に対する愛情が欠落している人間が多い。蛮族と接することの多かった父は、彼らの暮らしから家族の大切さを学んだのかもしれない。もっとも、それが、王位を息子に譲りたいという欲望になったのかもしれないが。  ファーラムは、別に魔法王の位にこだわっているわけではない。だが、それが父の望みであるなら、喜んで王位を継承するつもりだ。  ファーラムは父の勧めに従い、部屋に帰ることに決めた。 「レパースよ。今日からは、わしではなく、ファーラムの護衛を務めるがよい」  魔法王は、手拭《て ぬぐ》いで返り血を拭っていたレパースにそう命令した。 「畏まりました」  レパースは手の動きを止め、深く頭を下げる。 「よろしいのですか?」  父の決定に、ファーラムはすこし驚いた。  ファーラムにとっては異腹の兄にあたるこの戦士に父が全幅の信頼をおいていることを知っていたからだ。 「かまわぬよ。わしには忠実無比なる三千の近衛兵がいる」 「分かりました」  ファーラムは素直に父の好意を受け取ることにした。どうせ護衛の戦士をつけるなら、精神支配の呪文で心を殺された戦士より、血を分けた兄のほうが頼りがいがある。 「それではこれにて……」  父王とヴォーク公に別れの挨拶を送り、ファーラムはこの広間にやってくるときに使った移送の扉を開こうとした。  この移送の扉は、同じ建物の別の場所に通じている。この沈黙の間があるのは、魔法王の居城の地下深くである。もっとも、階段などはなく、この広間に入るためには、移送の扉を使うしかない。強力な結界が部屋の外壁にかけられているので、瞬間移動の呪文などを使って、中に入ることもできない。この扉をくぐれば、王城の最上階にある魔法王の執務室に出るのである。  移送の扉を開くための合言葉を唱えようとした、ちょうどそのとき、言い忘れたことがあったらしく、父が呼び止めた。 「何でしょう?」 「門主たちへの披露が終わったからな。おまえは、皇太子の部屋に移るがよい。わしの私室の斜め向かいの部屋だ。必要なものはすべて取りそろえてあるから不自由はあるまい。もしも、入り用なものがあれば、何なりと申すがよい」 「分かりました」  ファーラムはうなずいた。  昨日までは、王城の中庭に建てられた近衛兵の宿舎を仮の住まいとしていたのだ。  こうして、カストゥール王国の暮らしに慣れてゆくのだろう。  ファーラムはそのことを寂しく思いながら、移送の扉を開くための短い呪文を唱えて、しばらく待った。  扉が開くにつれ、まばゆい光が溢れだしてゆく。その輝きが最大になったとき、ファーラムはその光のなかへと足を踏み入れた。  魔力が全身を包む感覚があり、ファーラムは魔法王の執務室へと場所を変えていた。 「お部屋まで御案内しましょう」  ファーラムの後ろに控えていたレパースが、そう言って、ファーラムの前に回った。  皇太子の部屋は、執務室からさほど離れていない場所にあった。  この区画には魔法王自身の私室をはじめ、魔法王の家族の私室。さらには、身の回りの世話を務める侍女や奴隷の部屋。それから、近衛兵の詰所などがある。  メルドラムゼーは妻とふたりの子をレイブラシルの陰謀で失っているので、唯一の肉親はファーラムだけだ。 「こちらの部屋です」  レパースは豪華な両開きの扉の前で立ち止まり、恭しく礼をした。 「誰もいないときは、わたしに礼は不要だよ」  ファーラムはいちおう言ってみたが、レパースが従うはずのないことは、最初から分かっていた。 「すでに、部屋付きの侍女が待機しているはずです。御用はすべて彼女にお命じください。近衛兵は扉の前に常時ふたりが詰めております。また、お出かけのときには、四人の近衛兵が護衛を務めます。もちろん、わたしも同行いたします。普段は、詰所で待機しておりますので、必要があれば何なりと御命じください」 「そうさせてもらうよ」  ファーラムはため息をつきながら答えた。  やはり、レパースは兄としてではなく、奴隷兵としての立場を貫くつもりのようだ。 「在室中はくれぐれも扉に鍵《かぎ》をかけていただきますよう。取り次ぎは、部屋付きの侍女に任せて、絶対に御自身では出られませぬよう」 「いろいろと面倒なのだな」 「御身のためです」 「分かったよ、おまえの言うとおりにしよう」  ファーラムは苦笑を浮かべながら、答えた。  部屋にいても、気を抜くことはできそうにない。おそらく、部屋付きの侍女は、その役目を解かれるまで、一歩も部屋から出られないのだろう。完全にひとりになれる時間がないということは、ファーラムにとっては窮屈だった。  統合魔術師になるための学問に明け暮れていたとはいえ、クユ族の集落では、まだいくらか自由はあった。ミルシーヌに連れ出されて、山菜摘みや狩りに出かけた記憶がまざまざと甦ってくる。 「今日は御苦労だったね」  ファーラムはレパースに一声かけてから、扉を開けて、部屋の中へと入った。  室内は魔法の明かりに満たされていた。  壁や天井のところどころに、魔法の明かりを創りだす魔法装置が設置されていて、そこから青白い光が発せられているのだ。  クユの族長の館で与えられていた部屋とは、まるで大きさが違う。族長の館の部屋を全部合わせたより、広いのではなかろうか。別室もあるようで、四方の壁にはいくつか扉もついていた。  家具、調度品はすべて整えられ、部屋のなかは隅々まで片付けられ、掃除もゆきとどいている。すでに、侍女が部屋に詰めており、仕事をしているのはあきらかだ。  ファーラムは侍女の仕事ぶりに満足した。これなら、うまくやっていけそうだとも思う。  そのときだった。  奥の扉が開いて、人影が姿を現わした。  若い女性だった。いや、まだ少女というべきだろう。背は高くないし、身体の線は細く、女性的な柔らかさがまだ感じられない。浅黒い肌から、蛮族の出身であることは明白だった。カストゥール王国の人間は市民階級にいたるまで、総じて肌が白い。  娘はファーラムに気がつくと、扉のところで硬直したように動かなくなっていた。それから、思い出したかのようにその場で畏まる。 「無理もない」  ファーラムはため息まじりに思った。  彼女にとって、ファーラムは絶対的な主人である。ほんの少し機嫌を損ねただけでも、侍女をせっかんしたり、ときにはその命さえ奪ってしまう貴族もいるのだ。  警戒するのは、当然だろう。  ファーラムは笑みを浮かべたまま、娘のところへ歩みよっていった。  部屋の主人として最初にすべきことは、彼女を安心させてやることだ。  そして、二番目は寝室に案内してもらって眠ることである。  娘は薄い絹の一枚着を身に着けていた。だが、そんな薄絹では、肌を隠せようはずがない。腰には小さな下着を着けているが、胸の双丘はその頂の薄紅色の蕾《つぼみ》まであらわになっている。  髪は後頭部で結いあげ、余った部分はひとつにまとめて背中に垂らしている。その髪は駿馬《しゅんめ》の毛色のごとき美しい栗色であった。  ファーラムが、娘のすぐそばまでやってきたときだ。  娘がためらいがちに顔をあげた。  その途端、ファーラムの笑みが凍りついてしまった。 「まさか! そんな……」  ファーラムは絶句し、信じられないというように、何度も首を横に振った。 「お帰りなさいませ、御主人様」  娘はもう一度、お辞儀をして、にっこりと微笑んだ。 「ミルシーヌ! どうして、ここに!!」  間違いなかった。髪型と服装が違うだけで、女性が別人になることを、ファーラムは初めて知った。だが、声は変わりようがない。  目の前にいる娘は、ミルシーヌなのだ。  ファーラムはもう一度、どうしてと繰り返した。 「見てのとおりです、御主人様。わたくしは、御主人様がこのお部屋に居られますあいだ、身の回りのお世話をいっさい……」 「そんなことは分かっている」  ようやく衝撃から立ち直り、ファーラムはミルシーヌの肩をつかみ、その顔を見下ろした。  ミルシーヌは微笑みを浮かべたまま、ファーラムを見上げた。 「なぜ、侍女になどなった。魔法王の命令なの? それとも、ウバル族長の? それなら、わたしのほうから……」 「いいえ、違います」  ミルシーヌは、ファーラムの言葉を遮り、きっぱりと言った。 「これは、わたしが望んだことなのです」 「望んだ? なぜ……」  ファーラムは混乱していた。  ミルシーヌの気持ちがまるで理解できなかった。 「ミルシーヌ、君は知らないだろう。ここには、どんな自由もない。 部屋付きの侍女になれば、部屋から一歩も外へ出られないのだよ。薬草を摘みに行くことも、狩りに行くこともできないんだ」 「知っているわ! すべてを理解したうえで、わたしはここに来たの」  感情がたかぶってきたのか、ミルシーヌの口調はファーラムがよく知っているものに変わっていた。薄茶色の目が、涙で潤みはじめている。 「……ミルシーヌ。お願いだから、わたしの言うことを聞いて。君はこんな呪《のろ》われた王国に来るべきではないよ。君はクユの集落で暮らしてこそ、輝いて生きてゆくことができる。誇り高いクユの狩人として……。そして、クユの勇者と結婚し、健康な子供を産むべきだ」 「あなたの言うとおり。ここには、たしかに何もないわ。草原も森も、自由さえも。でもね……、でも、クユの集落にはなくて、この王国にだけ存在しているものがひとつだけあるの……」 「魔法文明? それとも豊かさ? そんなものにどんな価値が……」  ミルシーヌが自分をじっと見つめているのに気がつき、ファーラムは言葉を途中で切った。 「ミルシーヌ、まさか……」 「そのとおりよ」  ミルシーヌは泣きそうな表情でうなずくと、ファーラムの胸に飛びこんできた。 「カストゥール王国には、この部屋にはあなたがいるわ。わたしには、それだけで十分……」  ファーラムは言葉を失い、ただミルシーヌの背中に手を回した。  ミルシーヌも遠慮がちにファーラムを抱きかえしてきた。 「自由を失ったのはわたしだけじゃない。ファーラムだって、同じはずよ」 「わたしは、カストゥール王国の人間だもの。魔法王の息子、統合魔術の門主……」 「わたしにまで嘘をつかないで。あなたにだって、クユ族の暮らしが染みついているはずよ。草原と森、川と海、大地と空を愛し、それと共に生きてゆくクユ族の暮らしが……」  ファーラムは、ミルシーヌの言葉をただちに否定しようと思った。  だが、できなかった。  カストゥール王国の貴族の子として生まれても、育ったのはクユの集落であり、それを取り巻く大自然なのだ。そこへ帰ってゆきたいという思いは、心のどこかに隠れている。 「族長が言ってた。あなたは優しすぎるって。この王国で生き抜くのはたいへんだろうって」 「そんなことはない。わたしは、覚悟している。幼い頃から分かってたんだもの。この王国こそが、わたしの暮らすべき場所だと……」 「でも、きっと魂は帰りたがっている。クユの集落へ」  そうかもしれない、とファーラムは思った。  全知全能であるべき統合魔術師が自分の心にさえ気がつかなかったとは。そして、それを蛮族の娘に見抜かれているとは…… 「どこが、|完全なる魔術師《ア ー ク メ イ ジ》だ」  ファーラムは心のなかでつぶやいた。 「認めるよ、ミルシーヌ。君の言うことは正しい。だが、わたしはカストゥール王国の皇太子なんだ。ここから逃げだすわけにはいかない」  ミルシーヌはこくりとうなずき、ファーラムを抱く手に力をこめた。 「分かっているわ。だから、わたしがここに来たの。わたしが、あなたの草原になるわ。森になり、川になる」 「ミルシーヌ、それでは君が犠牲に……」 「いいえ、ファーラム。わたしは犠牲だなんて思っていない。だって、わたしにはあなたが必要だから。あなたがいなくなって、わたしはそのことに気付いた」  ファーラムはミルシーヌを離すと、怯えたような表情で周囲を見回した。そして、誰もいないことを確認して、ほっと息をついた。この部屋はあらゆる魔法から守られている。今の会話は、誰も聞いていないはずだ。  誰にも開かれてはならない。もしも、このことが知られたなら……  ファーラムはその不安を頭から振り払うと、ミルシーヌの肩を抱き、胸に引き寄せた。 「ミルシーヌ、誇り高きクユの狩人。そして、わたしの……」  ファーラムはミルシーヌの耳元に唇を寄せ、彼女にしか聞こえぬようにその言葉を囁いた。 「ああ、ファーラム。わたしもよ……」  ミルシーヌは喉が詰まったように、何度となく言葉を途切らせたあとで、やっと言い返してきた。 「でも、いいね。このことは絶対に秘密だよ。わたしがクユの男でいられるのは、この部屋で君とふたりでいるときだけなのだから」 [#地付き]角川書店「ザ・スニーカー」一九九四年春号掲載   [#地付き]書き下ろし